私は薄暗い森の中を歩いていた。空気は凛としていて霧がかかっている。歩くたびにガラスが割れるような音がすることに気づき、足元を見た。足元には蝶の死骸が落ち葉のように積もっている。羽が薄い青のガラスでできている。辺りを見回した私は、そのガラス細工のような蝶の死骸が辺り一面に広がっていることに気づいた。
目覚めると土曜の朝だった。夢の中で見た景色がまだ鮮明に記憶に残っている。カーテンを開けて冬の曇り空を見上げるとヒラヒラと雪が舞い落ちてくる。身体に新鮮な冷たい空気を取り込むと窓を閉めた。ラジオをつけると、いつものように第4工都で生産されている製品の生産量の放送をしている。それを聞きながら朝の支度を始めた。
ミホの住む第4工都は街自体が広大な工場である。この街に生まれた者は子供の頃に適正検査を受ける。適正検査は何度もあって、それが将来の仕事を決めることになる。仕事は全て第4工都の工場に関わる仕事で、適性検査により個人の特性にあった仕事が与えられる。巨大な工場である都市のどこかには、少々変わった人でも自分に合った仕事があるのだった。ミホの仕事はボルトを大きさごとに分類することだった。工場で試験などに使われたボルトは大小様々なものが1箇所に集められる。それを大きさごとに分類して再利用する。ミホはこの単調な仕事が自分に合っていると思っていた。例えば、友達のリカはプログラミングとやらを仕事でやっているらしいが、自分には難しくて無理だろうし続かないだろう。
次の週の金曜日、ミホはいつもの作業場でボルトを分類していた。大小様々なボルトは何十種類もあり、それらを素早く分類していく。冬の工場は少し寒くて、作業場の上には大きな配管があるため少し薄暗い。背後の通路を通り過ぎる人が増えてきたので、そろそろ定時だと思った。作業に集中していると時間を忘れてしまう。声をかけられて振り返ると、仕事仲間のマコが道具箱を片手に持って立っている。
「思ったより早く電気試験終わっちゃった」
マコは組み立てたばかりの機械に電源を投入して、正常に動作するか確認する作業をしている。正しく機械が組み立てられていないと、電源を投入した時点で爆発する危険もあるらしい。だから、電源を投入する前の配線チェックを念入りに行うとマコは言っていた。マコがミホの作業場を覗き込む。
「さすがの集中力だね」
「そうかな」
「私はこういうの無理かもしれない」と真剣な表情になってマコが言った。
作業を終えたミホは2階の事務所に上がろうとしていた。そのとき、階段の下に何か光るものが落ちていることに気づいた。それは、夢の中で見た羽がガラスでできた蝶だった。すっかり忘れていた夢の記憶がよみがえる。ミホはその蝶を拾い上げると、壊れないようにそっと持って事務所に上がった。冬に工場から事務所に戻ると暑く感じる。先に事務所に上がっていたマコはソファでくつろいでいる。
「なにそれ」とマコが尋ねてくる。
「何かよくわからない」
夢で見た蝶だと言う気にもならず、マコに蝶を見せた。
「これ人工物?よくできてるね」
「何かわかる?」
「いや、わからん」
「ヨシトミさんに聞いてみたら」
「ああ、確かに詳しそう」
ヨシトミさんはもうすぐ定年退職するおじさんで、いろいろな機械に詳しい。ヨシトミさんは事務所の端の机で図面を見ている。ミホは後ろから声をかけた。
「すみません」
「これ、何かわかりますか」
ヨシトミさんはミホの差し出した蝶をしばらくじっと見つめていた。
「これをどこで?」
「事務所に上がる階段の下に落ちていました」
「ちょっと見せてもらってもいいかな」
彼は机の上にそっと蝶を置き、いろいろな角度から観察していたが、やがてルーペを取り出して細部を観察し始めた。しばらくして、ルーペを置くと一呼吸おいてから話始めた。
「これは今の時代に作られたものじゃないよ」
「えっ」
「500年ほど昔、今よりも文明が栄えていた頃に作られたものだと思う」
学校の授業で習ったことがある。500年ほど昔に科学技術がとても進歩していた時代があったけれど、今となっては当時の技術は多くが失われている。
「これを拾った場所は暗かったかな」
「はい」
「この蝶の羽は光を電気に変える仕組みになっている。その電気でこの蝶は動いているんだ。電力不足で弱っているところを、暗い場所に着地してしまい、そのまま動けなくなっていたんだろう」
「私が子供の頃に読んだ雑誌が失われた文明の特集をしていたことがあった。今でも覚えているけど、失われた文明は姿を変えてひっそりと生きていると書いてあった。あれから50年近く経つけど、こんな形で出会えるとは」
ヨシトミさんは蝶を持って帰るための手提げ袋をくれた。ミホは作業着から私服に着替えて工場を出た。外はもう暗くなっている。少し残業したので定時の路面電車は出たあとだった。第4工都のいたるところに路面電車が走っているが、それらは各地の工場の前で止まり最後に居住区まで行く。街灯の下で次の電車を待ちながらビニールの袋に入った蝶を眺めた。